まだおいしくなれる幅

おはようございます。吉野実岐子です。

醤油もろみ自体も商品として売られていますが、醤油をつくれば、醤油もろみも手に入ってしまいました。醤油を作る際、もろみは優しく絞るのが理想だそうですが、醤油の方をたくさん取りたかったので、わたしはぎゅうぎゅうに絞ったんです。

ぎゅうぎゅうに絞ったもろみは、いわば色のついたおからです。一見すると、味噌にも見えました。大体、魚の切り身2つが入る程度のタッパー×2つ分、手元に残ってくれました。

まずは、少量のお酒で解いて魚に塗っておいたり、野菜炒めなどに入れたりといった、いわば塩麹や醤油麹のように使ってみました。また、大根やセロリを漬けてみたりもしました。

さらには、隠し味として、カレーや味噌汁に入れてみましたが、想像以上に味噌汁がおいしさを増してくれて「まだおいしくなれる幅」に、感動しました。多分、シチューやおでんも、おいしくなれる幅を見せてくれるんじゃないかと思っています。

多分、クリームチーズに少量混ぜたり、お汁粉ごく少量いれても、おいしいだろうと思っています。柿チーズトーストなどにも、合いそうです。

醤油麹や塩麹も、手軽で十分おいしいのですが、フルーティな香り高いもろみを知ってしまうと「もろみを使い切るまでは、醤油麹や塩麹づくりはお休みにしよう」と思っちゃいます。

いろんな調味料を買い、台所で実験することではいけない新しい冒険に、手作りは連れて行ってくれるような気がしています。


苦痛に思う状態

おはようございます。吉野実岐子です。

うまく言葉に表せない苦痛を感じる状態があると、こういう方になびいてしまうのかもしれません。

ただ、それはご自身が「この何とも言えない苦痛は、何か間違っているからだ」と、否定から始めていることにも拠ります。実際、間違っているからではなく、行動や反応の選択肢が限られた結果、苦痛に思う状態がうまれていったのです。

だから、ご自身にとって必要な選択肢の幅を増やしていこうとすることが、深い心にも配慮した、統合への道です。

そして、必要な選択肢の幅を増やす一つの方法は「意識的な基準・価値観によって、合わないと感じる自分の一部を排除したことが、不安やストレスになっていると後に何となく知る」ことを、決して意識的には成し遂げないことです。


ガードの固さ

A4をA5サイズで、A3はA4サイズで持ち歩けるフォルダーを重宝しています。おはようございます。吉野実岐子です。

あなたのガードが固いと「もっと心開きなよ」「気楽にやればいいんだよ」なんて、まるで悪い状態にあるかのように、周りから言われるかもしれません。あんまりそういうことが続くと「自分は変わらないといけないんだ」と意識的になって、自分で自分をこじあけるようなセミナーなどに、深い心では望みもしないのに流れついたりすることも、あるのかもしれません。

そうして「感情を発散できたら、確かにスッキリした」「心が開けると確かに周りと関わるのが自分でも楽だ」といった経験が、意識への思い入れをより強めてしまい、そうとは意識できずに、みなさんの深い心はどこかへ追いやられていくのかもしれません。そうして、自己否定から始まる「ありのまま」を目指していくとき、それは常に変化を目指すみなさんの深い心とは、違うところへ、そのまなざしを置き始めます。

やがて、精神病性障害や自殺や原因不明の症状という実を結んでしまうことだって、その先にはよくあるのです。だから、みなさんの深い心は、確かにあの時、抵抗してくれただろうと思います。というのは、ガードの固さ自体も、またリソースだからです。その人が経験してきた範囲においては、それはベストチョイスだったのです。

そこに、意識的に何かする動きが加わると、実際ガードはますます固くならざるを得ません。そして、ガードが固くなるほどに、より強烈な外圧が加わっていく流れに、意識的に心身を置いているのです。そうしたら、自我が分裂したり、回復不能と呼んでもいい領域にまで及ぶ混乱がうまれてしまうのは、当然でした。

変化に赴くことを避けようとする深い心は、また常に変化を目指しています。別のやり方を探しているだけなのです。いかなる外圧があろうと、深い心は疎外されるべき存在ではないでしょう。まずはその深い心に、十分な配慮を手向けてみてはいかがでしょうか?

そして、それこそが統合への道です。そして、そのことに配慮できないセミナー開催者自身、自己分裂し、深い混乱にあるのは、言うまでもありません。


深い心を知る余裕

したいのにできないことがあるとき、あなただけは、自分の能力や性質だと思うものを責めることから、すっと離れてみませんか?意識でそれを望んでいても、そこに逆らう深い心の語りかけがあるのです。(それに、意識はほぼ古細菌です

一呼吸おいて、その深い心の語りかけを確かめてみる余裕を、持ってみませんか?その深い心は、本当にあなたをつまづかせようとして、意識に逆らうのでしょうか?あなたの深い心は、あなたの邪魔をたくらんでいるなんてことが、本当にありうるのでしょうか?

意識で捉えられないだけで、実は、その深い心が、結局のところ何かとても重要なことをなそうとしているかもしれないと、思いを巡らせてみると、どうでしょうか?

深い心を敵とみなす「~したい」という意識の方が、浅はかだったなんてことが、実によくあるのかもしれません。


古細菌

私たちの体の一部である皮膚や粘膜は、古細菌・真菌・ウィルス・細菌などの宿主となっています。

食べ物・洗濯の頻度・お風呂に入る回数や入り方等・寝具の洗濯の頻度等で、その分布は常に変わり続けています。ざっくり言うと、その分布が変わることで、私たちの免疫異常だって生まれています。

みなさんが、どんな古細菌・真菌・ウィルス・細菌などとどんな風に一緒に暮らしているかは、どんな疾患にかかるかと関連があります。

腸にかぎっていっても、抗生剤を過剰にとったり、農薬や添加物を摂取すれば、古細菌という強アルカリや超高温などの劣悪な環境でも生き延びられるものが、腸内で繁殖します。いわば、初期の地球の状態が腸内で再現されているようなものです。当然、善玉菌はやられてしまっています。

何でもバクバク食べて、体内環境がおかしくなったりしている人は、いわばお腹の中が恐竜誕生前の地球の状態に近いと表せます。

ここから、話はぶっ飛びますが、この古細菌はわたしたちが意識だと思っているものも、生み出します。さらに、論理が飛躍してるのを承知でざっくりとした傾向として話すなら、観察可能な事実として「意識的な人(無意識と意識のバランスが崩れている故にそうなる)ほど、体内環境は崩れている」傾向があります。

生活をととのえるという古細菌が減る働きかけをして頂くと、意識と無意識のバランスはよくなり、意識と無意識は統合され、気づくと肌荒れや体臭や妙な思い込みがぐんと減ることを、多々目の当たりにしています。


この年末年始こそ、やりたいこと。

「睡眠時間を削るのがやる気」のような変な根性論に、すぐ逃げ込んで工夫をさぼっていませんか?眠らないでいると、人間の精神活動は必ず乱れます。

ノンレム睡眠・レム睡眠の両方を耳にしたことがあると思いますが、「ノンレム睡眠は深い眠りだからよくて、レム睡眠は浅い眠りであんまりよくない」といった変な解釈をしてはいないでしょうか?どちらも必要だから、わたしたちに備わっているのです。

まず、ノンレム睡眠は筋肉の緊張が少しずつ緩みながらも、その緊張がある程度残る状態です。脳波で見ると、脳の活動が次第にゆっくりとしていくさまがわかります。

そして、レム睡眠は、筋肉はほぼ完全に弛みますが、眼球を動かす筋肉だけは動きます。脳波で見ると、昼間の目覚めた状態と近く、夢を見て脳内のお片付けをします。そして、このときの筋肉がほぼ弛んだ状態が、空を飛ぶ夢/どんどん落ちていく感覚の夢/金縛りにあって声が出ない状態、となることが分かっています。そこから「なぜだか眠るのが怖くて、眠いんだけど眠りたくない」という葛藤を抱えることがあります。そして、レム睡眠中に目覚ましが鳴ったりすると、目覚めに不快感が残りやすいと言われています。また、脳内のお片付けができているという意味でのいい夢とは、昼間の論理的な発想からは考えられないような飛躍を含む夢だと言われています。

また「明るい夢の方がいい」という決めつけが危険であることも伝えておきます。特に精神病性障害からの回復期、夢は明るく、起きてみたら現実が暗いとなって、その落差が自殺へつながるという指摘もあります。

睡眠時間は、多くの方が圧倒的に不足しています。そして、子供の時は大事にしていた目覚め心地を蹴っ飛ばして「でもまぁ、6時間(→寝不足です)寝たからいいんじゃない?」のように、自分を丸め込んでしまいます。が、心地よく目覚める「あーよく寝た!」と思わず伸びをしてしまう感覚が週に何度もあるのが、健康的な状態です。ぜひ、①睡眠時間をうんと伸ばし ②上記の知識で「あぁ金縛りが嫌だと思ってたけど、レム睡眠特有の状態をわたしはちゃんと捉えていたんだ。だから、大丈夫なんだ」と認識を改め ③目覚め心地をよくする ことを、この年末年始に集中的にやってみてください。


まんべんなく身体を使う

「いい」とされる運動を選び抜いて、身体を動かしていませんか?子供が遊ぶように、斜面で農作業をするように、まんべんなく身体を使おうとする方が、身体はゆるみやすくなります。例えば、スマホに夢中な生活では、自然とまんべんなく身体を使う展開は望めないでしょう。

まんべんなく身体をつかえれば、自然とリンパや血液の流れは改善されます。それによって、排泄機能が高まってかゆみなどの症状が減ったり、美肌にかわることは、大いにあります。滞りを改善しないで、サプリメントを飲んだりしても、肝臓の負担も増すため、逆効果になることがあります。

まんべんなく身体を使えていないと、例えば硬くなった肋骨が下がって、呼吸器の負担が増します。そうすると、こばわりを弛めようと自然と咳が出たりします。

特別なサプリメントなどを探すよりも、まずは「まんべんなく身体を使う」という子供やスーパー元気なおじいちゃんおばあちゃんがしていることを、生活に取り入れてみませんか?


情より理が先

先にあるものを尊重しない友達感覚は、後にあるものを不安にさせ不自由にさせます。例えば、親が子と同等であるように振舞うことが、該当します。また、会社の先輩が会社の後輩に、毅然とした態度で自分たちが先だとあれないことなども、該当します。

先にあることを優越感と捉えることも、後にあるものを不安にさせ不自由にさせます。虐待やパワハラはその一例と呼べるでしょう。

秩序は人を縛るものではありません。そこに秩序がきちんとあるとき、わたしたちはみな自由で満たされた感覚を得ていきます。皆さんが酔っ払ったように、先にあるものを尊重しない友達感覚を生き、先にあることを優越感と捉えることが、後に続くものを不安に不自由にさせていることを自覚できると、現実は変化し始めるでしょう。

情より理が先に来るのです。


緊張の裏にある愛

”危険だから「来ちゃだめ」と伝えただけ。それまでご機嫌だった相手は、それを聞いてびくっと震える。”そんなことが、これまでの人生の皆さんの経験の中に、あるだろうと思います。(どちらの立場であれ)

これは、お互いに傷つけるつもりはなく、相手を守ろうとしたり、自分に正直な行動をとっただけです。でもこんなふうに身構えていることが増えると、その筋肉の動きのパターンが、刻まれます。

私たちは身構える時、そうすることでダメージを小さくできているつもりです。でも上に記したように、エネルギーの流れが阻害されます。そしてその結果、このエネルギーが阻害された姿勢を保つために、つまり自分のエネルギーを阻害するために、寝たり食べたりすることで得られるエネルギーが浪費されます。この姿勢が繰り返されていく時、身体の動きには緊張が伴うようになります。

天ぷらを揚げていたから、小さい子に危険だから「来ちゃだめ」と伝えただけだったとしても、お母さんに庭のお花をあげようとルンルンだった相手は、それを聞いてびくっと震えます。それは、そこにあった愛(と一般には表現されるもの)というエネルギーが遮られて、完了していないからだと表すこともできます。

みなさんが「来ちゃダメ」と言われた側だったとしたら、思い出せることは、ネガティブと呼ばれる感情や緊張のような不快とカテゴライズされる感覚だけかもしれません。でも、当時の自分の願いにフォーカスすれば、自分にも愛があったし、怖い顔で鋭い調子で「来ちゃダメ」といった相手にも愛があって、相思相愛だったことがわかるだろうと思います。

そうしていくと、身体から余計な緊張がとれていく(=エネルギーを阻害するパターンが消える)だけでなく、あの時自分にも相手にも深い愛があった(という表現が一般には可能であろう)ことが腑に落ちて、人生にスムーズさが戻ってくるでしょう。


フレキシブルに対応してもらえないのはなぜ?

「自分だけ、フレキシブルに対応してもらえない」「あの人には先生はいいよっていったのに、自分にはダメだといった…えこひいきだ」と思うような経験がおありでしょうか?

えこひいきのケースもありますが、まず検討したいのは、あなた自身のバウンダリーの健全さです。バウンダリーが不健全である場合、フレキシブルな対応をされると、ここぞとばかり相手に寄りかかったり相手に侵入したりします。だから、不快になった相手は、あなたに対し柔軟な対応はしなくなります。親切をしてお礼を言われるならまだしも、恩をあだで返されたのでは、あなたからは手を引こうと相手が判断するのも、当たり前です。

バウンダリーが不健全な方は非常に多く、雑にいうなら無自覚でも、周りから不安定に見えている人は全員該当します。その意味で、プロフェッショナルの少ない昨今でもあります。


幸せなパートナーシップはどこにいったの~

「Zoomがうまく使えない…、やっぱり自分はダメだ」「もう一度髪を染めなおしてほしいと美容院に言いたいけれど、気を悪くされて次から行きづらくなると嫌だな…」そんな風にして、出口のない怒りが蓄積されると、脳内の身体感覚を感じる部位が過活動になってしまうことがあります。身体感覚を感じる部位に血流が集中してしまうと、頭痛や腰痛や首や肩の痛みとして表れるんです。(「転換性障害」なんです)

また、怒れば孫悟空のあの輪の部分に該当する箇所にやっぱり血流が集中するから、脳内の他の場所の活動は低下します。そうすると、やる気と関連の深い箇所の活動レベルが低下するから「やる気が出ません…」「怠いです」「時間が足りません」といった状態が生まれます。血流が改善すれば、脳内の他の場所の活動が通常レベルに戻れるので、やる気が復活したり、体力がUPしたように動けたりします。その結果「あれ?時間が足りる!」となったりします。

表現されていない怒りがたまると、記憶を扱う海馬に影響が及び、記憶が飛ぶような感じになります。また、扁桃体に影響が及べば、自分を大事にしてくれる人を攻撃して大事な関係を壊してしまったりして、「幸せなパートナーシップはどこにいったの~」となっていったりします。

「記憶力が悪い」と思うなら、湯船に最低15分は浸かることはもちろん、全身の血流を良くしましょう。


外的変化を内的変容に。

コロナが第3波に入っている今、求められる人材は、とにかく外的変化を内的変容に変換できる人材です。

過緊張でアドレナリンばりばりだと、それは成立しませんし、外的変化を待つ自分のない状態でも、それは成立しません。

脳の一部が過活動でも、恨みや憎しみを少しでも抱えた状態でも、やはりそれは叶わないことなのです。レジリエンスを高めようとする視点すら、全体はみておらず、そうはならずに終点を迎えます。

自分を含むいのちの営みをありのままに認められる状態にあるときだけ、それは可能になります。


あやまらないのはなぜ?

ASD傾向が強いほど、謝らないことを覚えておくと、日々の「あの人なに!ムカツク!」を減らせるかもしれません。ASD傾向が強いほど「謝るなんて、非効率だ」と考えるんです。そして、傾向が低くなるほど「理解はできないけれど、謝ることは必要なスキルだ」という考えになり、傾向がなくなると自然と謝ることができる態度が、当たり前になります。

「自分が悪いのかな?」と考えがちな人は、「あの人があやまらなかったのは、実は…」と、壮大な妄想を始めることもあります。それはそれで、また不健康なことです。あやまること自体が、その人の世界から欠落している場合もあることを頭に入れておくことは、相手を生かしやすくなることでもあり、自分もより生かされていく道です。何よりストレスを減らせます。

「自分が悪いのかな?」と考えがちな人は、実は人はみんな違うことが腑に落ちていないからこそ、自分の捉えた世界の常識に人をあてはめて、妄想していたりもします。ただ違うだけなんだということが、どしっと腑に落ちると、日々のストレスはさぁっと引いていくでしょう。


自分の基礎代謝、知ってる?

眼科で「もともとの目の状態からして、もう少ししたら矯正視力を少しだけ下げれば、老眼にならなくて済むよ。車の運転しないなら、それでいけるよ」と言われました。車が必須の地域で、車なしの生活をしているから、わたしは必然的に基礎代謝が上がったんです。

基礎代謝が下がれば、太りやすくなるのはもちろんのこと、夏がきつい場合にも基礎代謝を調べ、甲状腺の検査をした方が良かったりします。ちなみに、病院に行くと緊張する人が多いので、甲状腺の検査の値が狂ってしまうことが多いことが分かっています。だから、いくつかの病院で検査したり、自分が安心を感じるところで検査するようにすると、正しい現状を把握できて、明るい未来を構築しやすくなります。

基礎代謝は「基礎代謝×計算」で検索すれば、いくつものサイトがヒットします。計算方法によって、多少提案される数値に幅があるため、複数のサイトで数値を表示した方が、参考になるでしょう。そして、体重計の多くに、あなたの実際の基礎代謝を表示してくれる機能がついています。ちなみに、基礎代謝UP=運動すればいい、と思いましたか?

多くの方が、視覚に偏って情報処理をしているので、目に見えるきれいさでOKとするという、触覚や嗅覚や内臓感覚を無視した形で、きれい/汚いの判断をしては、間違えます。そうすると、目に見えないところで汚染が進んだ空間で、積極的に運動してしまって、難治性の病気の遺伝子のスイッチをONにするような、ややこしい厄介な未来を生んでしまいます。動植物がどんどん消えゆくこの地球で、どれだけきれいな空間など存在し得るのでしょうか?

改めて、AならばBのような、全体を捉えない発想から抜けて、何かを犠牲にした健康・何かを犠牲にした幸福・一時的な成功とは、縁を切っていきたいなら、プロの手を素直に借りるのが一番ストレスレスで安上がりでしょう。


葉は良くなり、根や幹が悪くなる

今日から、二十四節気では「霜降」にはいります。ここから「立冬」までの間に吹く寒い北風を「木枯らし」と呼ぶそうです。

先日、漢方薬局で「その説明わかりやすい!」と思ったのは「人を木に例えるなら、睡眠と休息・食事・運動が、根っこをしっかりさせて幹を太くする。漢方は、葉っぱが枯れ始めたりしたら使うもの。漢方で葉っぱは元気になっても、睡眠と休息・食事・運動がちゃんとしていないと、またすぐ葉っぱが枯れたり、木がぐらぐらしてしまう」でした。

さらには、本来なら血圧を正常化させる生薬なども、睡眠と休息・食事・運動を改善しないまま「これがいいらしい!」と飛びついて飲み始めると、逆に「高血圧の人には危険」と見える状態に入ることもあるそうです。つまり、根や幹に働きかけず「まだ未病の状態だから」と、葉にばかり働きかけると、逆に根や幹が力を失ってしまうという、逆効果にもなってしまうんです。

実は、よかれと思って、自分の根や幹が力を失ってしまうことをしている方は、コーチングでもよく見かけるんです。


できないことが魅力になる。

明日は全国的に、11月の天候から9月の天候へとうつるようで、夏日の予想の地域も多くありますね。みなさん、ご自愛ください。

さて、できることは強みに、できないことは魅力になっていきます。また、ある時点からは、できることは嫌味になります。

今まで頑張ってきた方、すなわち意識のボリュームがうんと上がっていた方は、できることを増やそうとしたあまり、それが嫌味の領域に入っていて、かつ魅力が表現されていないことに、なかなか気づけないようです。

ここからは、できないことが魅力の表現を助けてくれることに、喜んで降参していきましょう。そうすると、人生の自由度が上がっていきます。自分の感覚と合う人と出会いやすくなったり、優しさをいただきやすくなります。


プロとアマの違い

「話を聞く」というと、誰にでもできると思われるんです。では「話を聞く」プロとアマの違いがどこにあるかというと、そこに含まれる情報量の差です。プロは同じことを聞いても、アマとは比較にならない量の情報を、受け取ります。

自己愛が強すぎると、返された言葉という外見だけに囚われて、その中身の違いを受け取れず「話を聞く」プロの間を転々としてしまうかもしれません。何気なく返された言葉の中に詰め込まれた大事な物たちをどさっと見逃すだけでなく、それらがみずみずしく存在していることに、気づく気配すら持てないかもしれません。

自分たちの耳の中に閉じ込めたものを「話」だと思って、プロの前に行き、自己愛が強いから「あなたは自然の中に音楽を聴けなくなった音楽家のようだ」と言われても、それを否定しては自己愛を強めるということを繰り返していると、なかなか厄介な人生が展開することになります。

別の視点から言うなら、そういうことを続ける限り、チャンスを見逃し続けて、不自由なままになることになります。そういうことを続けていると、全面降伏か全面対決となってしまい、解決を目指せないからです。


人生の味気ない時期

今年は、ハリッサという調味料を愛用しています。チュジニア(アフリカ)のもので、ガーリック・レッドチリ・クミン・キャラウェイ・コリアンダーが入っています。

そして、調べてみたら、チュニジアはスパイス大国(?)なのです。こうしたスパイスをいくつももつ国は、フランスなどいくつかの国に限られているようで、その中の一つがチュニジアでした。

他に、クァラートダッカ(クローブ・ブラクペッパー・シナモン・ナツメグ・パラダイス)やタビル(コリアンダー・キャラウェイ・クミン・ガーリック・レッドチリ)やバラト(シナモン・バラのつぼみ・ブラックペッパー)などがあるそうです。

ちなみに、こうしたスパイスを入れても、味はつかないことにみなさんお気づきでしたでしょうか?子供の頃、カレー粉をそのままなめても、カレーの味はしなくて、紙でも舐めたようでした。

でも、熱を加えたり(炒める・温度の高いところに置いておく)、太陽の力を借りる(そもそもスパイスが生まれる過程で「干す」作業が含まれる)ことをしていくと、なんとも香しくおいしいと感じる味が生まれてくるから、不思議なものです。

頭がかたいと「味がしないから、味をつけよう」と、一辺倒に考えてしまいます。でも、全体性を生きていると、そのままだと味のしないスパイスが、全体に何とも言えない香しさや美味しさを与えてくれることを知っていて「人生の味気ない時期」がいかに自分の自由を生むかを理解できるから、大切にできます。


雲海

わが家の辺りは、よく雲海が出ます。さらに、ベランダまで霧に埋もれて、窓を開けようとして家が浮いている感覚にギョッとしたこともあります。電車に乗っていても、ホームが完全に霧に埋もれていたことがあって、雲海や霧は、日常のものです。

そんな日常に雲海(や霧)が存在している身からすると、東京のお高いホテルで雲海サービスがはじまっている(庭に霧を発生させて、送風するらしい)ことは、ひどく滑稽に思えるのです。きれいだと思う気持ちは、ある程度わかります。(あるところからは、怖くなりますよ!)

しかし、日常に雲海があるということはそれだけ湿度が高く、そういう環境に合う生き物が一緒についてくるということで、そこには皆さんの嫌いな生き物も当然含まれます。でも、そうしたものを省いて、美しいと思えるところだけを切り取って持ち込もうとする姿勢が、あまりにも全体性をいきていない不自然な姿であるゆえ、滑稽に見えるのです。

朝10時頃まで、すぐ下の道も見えないほど霧が濃い日もあって、雲海もとんでもなく低いところにあったりすると、もうどっちがどっちかわかりません。だって、どちらも、水分です。。。でもこの感覚は、東京のホテルで雲海もどきを眺める人には、生じえないでしょう。部分しか切り取ってないからです。

こうした部分を切り取って持ち運ぶ姿勢は、昔からありました。非常によくあることです。しかし、だからこそいい加減、その不自然さに心身をひらけない私たちは、本当にどうかしてしまっています。


スケルトン

万能感の強い人は、専門家を遠ざけたがります。その道のプロフェッショナルでもないのに、自分で判断したがります。そして、いざという時になると、専門家に依存します。

「自分でできるから」「ちゃんとやりますから」と主張しますが、そう返答しなければならない文脈を理解してないから、つまり専門家があなたよりずっと広く深く見たところから発言していることを、理解できていません。

他者にゆだねる厳粛さの存在する場を理解することができないわけですから、ご自身が何かのプロフェッショナルになる道を、自ら閉じてしまうのです。

こうしたいのちの無駄遣いが、自分自身に対する感謝のない人の日々には刻まれていて、それは専門家からはスケルトンで見えているんです。


登山と下山は異なるもの。

皆さんが様々な状態から「回復」しきれないのは、行きと帰りを同じだと思っているからではないでしょうか?

何らかの状態あるいは症状から「回復」する際、それは登山と下山では通るべき道が違うことと同じように、考えるべきです。

大体、膝が笑うのは下山の方です。気持ちが焦るのも下山の方です。特に登山を山頂に達する事と考え、下山をおまけのように捉えるほど、怪我をしやすいでしょう。下山もまた大イベントなのです。

同じように状態や症状が悪くなるときには、息をひそめる感じがあるのに、少し回復して見えてくると気を緩めてしまうのは、回復をおまけとみなしている姿勢ではないでしょうか?

決して「気を引き締めましょう」と言いたいのではありません。回復もまた新しく大きなイベントであるという位置づけのもと、ご自身の状態や症状や回復そのものを捉えていくと、それ自体がまたとない経験となり、皆さんの人間性の豊かさを育む1部になっていくのではないでしょうか?


精神的に健康でない2つの証。

精神的に不健康であると、自分の中の内的感覚の自覚が、当たり前に根付いていません。「途中で疲れたら、遠慮なくそう伝えて下さい」と言われても、自分の中の疲れたという感覚を掬いあげられないから「思いのほか、疲れていた」ということが、日常に蔓延してしまいます。

また、精神的に不健康であると、はっきり人に向かってNOをいうことができません。(反発は、NOをいうことと、違います)「でもそうはいっても、こうだから、ああだから」と考えては「まぁいいか」と、NOを言わないでいたから、なんとなくYESということになってしまうようなことが、やっぱり日常に広がってしまいます。そうすると、不平等な人間関係にばかり恵まれてしまい、人と会うと緊張することも増えてしまうでしょう。相手が言ったこと(例:あなたには~というところがある)を、丸飲みして「わたしには~というところがあるんだ。わたしってひどい!」と思うような、万能感を相手に抱いてしまう足場から、解放されていく選択肢も、あなたにはあるのです。

わたしが再三、気持ちより先に身体感覚を受け取るように伝えているのは、気持ちに目を向けることで、内的感覚が隠れたりねじ曲がりやすくなるからです。そして、身体感覚ではNOを言いたい(例:この人と会うといつもお腹が痛くなる)のに、気持ちではNOを言えなくなってしまう(例:この人に会えばまた仕事を回してもらえるかもしれない、そうすると不安が少し減る)ことが、実際に人という生き物の中では多いからです。

しかし、内的感覚を自覚できて、かつNOをさらりと言える人はほとんどおらず、見ていると魑魅魍魎になろうとして、魑魅魍魎であることが強くて健康であると自分に言い聞かせている人が多いので、本当に大変な世の中であることは、まちがいがないと思います。


エールを送っちゃう顛末

「こんなに頑張っているのに!」と思うのは、それだけ自分の望みを知りえていない(「これが望み」と思い込んでいるものがあるけど、それじゃない/思い込みに支配されている)からだったりします。

それは、その人が頑張ることでえられる何かをとても「信仰」していて、得た何かが何なのか、実体を確認してこなかった足跡を含みます。あるいは、意識と無意識のバランスが崩れていて、意識が強すぎる状態にあること、つまり「助けて!」という叫びを見せてくれます。

がんばることが逆効果になることは、よくあります。「正しい/間違っている」というジャッジの往復で、美しさを見逃してしまうから、リソースをリソースとしない行動が続いてしまいます。そうすると「わたしにはできない」という感覚も生まれやすくなります。「こんなに頑張っているのに!」の後には「できない」がセットでついてくるのが、定番な印象を受けますが、いかがでしょうか?

でも「できない」と思う時、それはそれを「できる」人に力を与えていますよね?自分ができないことができる人は、実体よりもすごく見えがちです。そんな風に、エールを送ることが「できている」わけですよね?

思い込みに支配されていると、美しさを見逃しつつ、周りにエールを送ることになりながら、「助けて!」と絶叫するような感覚が身体のどこかに宿るのは、定番のシナリオです。


初めてのアフリカ文学

時々、中南米やアフリカなど、行ったことのない地の文化に、矢印がくぃっとむきます。

今回、わたしにとって、クレオールでないアフリカ文学としては初めてかもしれない、ナイジェリアの作家の本を読みました。

災厄の多いエリアは、あやまった理が良かれという思いのもと、せっせと継承されていることが多いのですが、この小説では勇気の履き違えの形で、その幾つかをあらわすことで、正しい理が浮き彫りになるように、描かれていました。

いわば、暗黙の了解として合法化された家族の誰かによる殺人も、無意識レベルで共有されてしまうという真実は、以下のようにあらわされています。

「夜にひとりで歩いていて、道すがら悪霊とすれ違ったときのように、漠然とした恐怖が襲いかかり、頭が膨れ上がる感じがした。その瞬間、心の中でなにかが壊れてしまった。」(『崩れゆく絆』アチェベ著、光文社古典新訳文庫、p103)

また、呪術のような広義での宗教に拠ってきたからこそ、新しい宗教に足元を掬われる様子も描かれています。現代においては、芸能の形で同じようなことが起きていきますよね。より異文化にフォーカスしてこの本を読むなら、男型の罪/女型の罪という考え方などは、面白くも映るのでしょうか?いずれにせよあまりに違い過ぎて、全く共感できないところが「わざわざ読んだかいがあって」良かったです。

全く共感できない者同士がたくさん住んでいるこの星で、平和を願うのならば、安易に類似点を探して目を曇らせるのではなく、あまりにも違い過ぎることをちゃんと経験していくことが、要になると思うからです。


おいしい水

みなさん、お茶やジュースは、お好きでしょうか?自分で調合して飲むのも楽しいし、絞りたてのフルーツジュースは最高ですし、楽しみがたくさんあります。

でも、もう一歩踏み込めば、それは「水がまずい」ということなのかもしれません。というのは、本当においしい水は、何か味付けを欲さずに、どんどん水だけで飲めてしまいますし、お料理に使っても調味料をあれこれ必要としないからです。いろいろな味が欲しくなるのは、水・土・空気といった土台がよくないサインと考えると、かなり合点がいく方も多いでしょう。

水の話に絞って表すなら、本当に水がおいしいとそのままで美味しいから「でも、タイ料理で旅気分を味わいたい」のように、心が旅しなくなります。旅しなくても、すぐ満足できるようになります。基本的欲求が満たされるから、その上にあれこれ楽しみたいと思わなくなるのです。頭で「あれはこれにいいから」と膨大な知識を必要としなくなります。わたしも薬膳の知識を必要としたのは、水がおいしくない東京にいた時でしたし、無論その知識は無駄にはなっていませんが、でもそうした「わざわざどこかに探しに行く」ような知識を必要とするなら、結局、水など基礎の部分が悪いのです。

同じことは人にも言えます。飾り立てる工夫を必要としたり、盛ったりするということは、そういうことです。比較的表面的な例でいうなら、この5年ほど基礎化粧品もメイクも、随分ややこしくなったと思います。化粧水を塗る前に、化粧水の浸透を良くするものが必要ですとか、肌つやを良く見せるためにこれを塗ってから、ファンデーションを塗ると内側から発光してみえますとか、テクニックの大盛りになってきました。そこまで、肌がボロボロということは、内臓が危険な状態にあるから、生活全般を変えなくてはいけないということですが、そこには意識が向かないのです。

土台を良くしていかないと、お金ばっかりかかるから、余計にお金を崇めていく狂った方向に進んでしまいます。そして、そうやって表面に留まり、狂いを深める奥には、トラウマがいることがすごく多いのです。


卵ホルダーとスタイラスペン

出張販売して下さっている有機農家さんが、卵も売って下さっているんです。普段あまり卵は買いませんが、この出張販売所に行けるときには、卵を最大4個買います。

ちゃんとそれぞれ別の色をしていて自然だし、何よりおいしいのです。そこで、地球への負担を減らす観点から、エッグホルダーを探してみました。そうしたら、キャンプ用品でいくつか出ていて、いわば取っ手付き卵パックもありました。

スーパーで買うと、いちいち包装が仰々しく、ゴミの量も下手すると5倍増えるし、ゴミ袋代も下手すると5倍かかります。そうすると地球以前に、こちらが負担を感じます。有機農法のお店だと、新聞紙に包んでくれたりするから、濡らせばそれで窓もきれいになるし、まだ、それがゴミの一部になることで、生ゴミの臭い削減にもつながるのです。

今回購入した卵ホルダーはプラスチック製で、2050年には海が「プラスチックゴミ>魚」となるとも言われているため迷いましたが、紙製だと洗えないので何回かで捨てることになるから、しばらくこちらを使ってみます。

そして、掌より小さいサイズに絵をかくために、別の用事で歩いていた時に見つけた100均でスタイラスペンを買ってみましたが、こんな感じでした。ちなみに、アルミホイルを使って自作する手もあるようですが、こちらもうまくいきませんでした。ということは、しばらく手書きが良さそうです。

こんな感じで、時々は新たな道具が生活に入ってきたりします。

ところでみなさんは、予想と違ったものを「失敗」と決めつけ、苦々しい気分になったりしていませんか?

わたしは、予想と違ったものも、使える範囲を模索していると、坂を上がったら急に富士山が見えるように新しい風景を見せてくれるから、すごく大事に思っています。

「あの人と友達になって、失敗だったな」なんて思うことはないでしょう?それと同じです。ムカつく相手も、ほんと最高の友になりますよね!


こんな胸キュン、大歓迎!

仮設の映画館で、ミニ・シアターでしか上映されないような良質の作品が見られる機会に、心底ワクワクしました。こうした作品は、真実をついているが故にオンデマンド配信に至らないこともありますが、本当に命を懸けて作られた作品も多いのです。

昨今の映画館は、特に夏、デパートなどと同様、異様に寒く、それだけでも行く気が失せます。さらに、地震の時の映画館は本当に怖いのです。だから、映画館が遠いエリアにすむわたしにとって、この機会は願ったり叶ったりでした。新コロゆえの期間限定サービスのようですが、会員制にするなどして、遠隔地や島や山奥でも見られる機会を、なんとか確保して、今後も続けて頂きたいと思っています。

さて、今回は『The Green Lie』という映画を観ました。今、企業はグリーン・ウォッシングに一生懸命ですよね。グリーン・ウォッシングとは、環境保全絡みの虚偽の情報を企業が発信することを指しています。そして、あらゆる認証はその生産地にいない人を公正だと信じさせる手段に過ぎません。有機農業の隣の田畑で農薬をまくようなことは、現地にいたり、生産者と日常会話を重ねていないと見えてこないのもその一つです。

そもそも「環境保護をアピールしている」時点でおかしいのです。「環境保護が重要な戦略である」時点でおかしいのです。「経済と環境のバランスをうたう」時点でおかしいのです。だって、環境ありきのわたしたちであり、経済とはゲームだからです。でも、その自覚すら持てない人間が増えました。常軌を逸した行動がいいイメージのもと流通するという、どこまでも常軌を逸した人間の堕落ぶりを、私たちはきちんと目撃すべきです。

こうした不正は、長くそこに住む人を強制移住させ、もちろん共同体も破壊し、児童労働や環境破壊など各種問題を一気に生み出しながら、サスティナビリティの強調など上辺を装う動きを生みます。「問題が深刻なほど上辺を装う」のは、個人の内面においても、集団においても、全く同じです。個人を見る時、装ったり演じてしまえる人というのは、本人の自覚を超えて、非常に深く病んでいます。「正直であれないのは、初対面だからしょうがないよね」と言われてホッとする人は、病人として扱われたくてしょうがないということです。

さて「数日前まで熱帯雨林だった土地を数日前に企業が焼き払った」景色は、みなさんにもぜひご自身の目で見て頂きたいです。また「人間は、変化に適応できる生き物。だから、社会構造が変われば、またそこに適応できる。それなのに、社会構造が変われば損するという発想はおかしい。社会構造に人が支配されるのではなく、人が社会構造を管理すべきだ」といった南米の原住民の言葉は、目が濁っていない人のそれでした。何らかの形で彼らを支援しようと思います。

これ以上書くと、映画をご覧になる楽しみが減ってしまうかもしれないので、ここで留めますが、他にもワクワクする映画が並んでいる『仮設の映画館』、ぜひご覧になってみてください。不思議と、オンデマンド配信の他のサービスとは違って、映画館で見ている感じがすごくある仕組みになっています。その点にもとても感謝しています。鑑賞中、左上にずっと”Temporary Cinema”と出ていることに、胸がキュンキュンしました。

希望があると「じゃあいいや」と手を引いて、もう成就したという幻想に寄りかかりたい人がすごく多い気持ち悪い世の中です。希望があるからといって、何事も待っていれば勝手に変わることは何一つありません。いつもすべては自分から変えていくのです!


毎日スッキリ過ごしたい

なんだかスッキリしない感覚から、紅茶・日本茶・コーヒーなどのカフェインに走り、それでも少ししかスッキリしないと感じるからこそ、つい「もう一杯」と手が伸びていませんか?

もしそうなら、以下を試してみると、それまでの選択の誤りも自覚できる上に、あらゆる選択の正しいパターンの片鱗は学習できるという、うれしい体験が待っているでしょう。

バイタリティーブレンド
L-テアニン(5%オフになる紹介コード:APQ3843)

なんだかスッキリしない感覚があるような不定愁訴の状態は、そうした感覚のない健やかな状態の人からみると「それを創り出す環境・習慣を有している人に見られる状態」とだけ映ります。

かわいそうな自分を好きな方は、大勢います。しかし、それはとりもなおさず、その方が、希望を追っているつもりで、欲望を追っている証です。


わぁ!鳶の巣!

近所にかなり高い木があるのですが、ちょうどその下を通ろうとしたとき、鳶が飛んできたんです。鳶をその高さでみることはあまりないので、ちょっと驚いて上を見上げると、大きな巣がありました。雨が降ったらずぶ濡れになりそうな、高い位置です。幹から遠く、むしろ枝の先端の方が近い場所でした。

何よりうれしかったのは、その巣が遠目に枝でつくられているように見えたことです。鳶の住む地域によっては、プラスチックバッグやハンガーなどを使って作る他ないこともあるでしょう。そういう人工的な状態ではなく、自然の状態であれる鳶をみて、ホッとしました。

電線に並ぶ雀を狙うかのように鳶が急降下し、雀がパニックになっているのを見たことがあります。が、鳶が主食とするのは動物の死骸で、森のお掃除屋とも呼ばれるそうです。生態系が回復するように、人間が考えと行動をラディカルに変えれば、鳶もまた海辺でハンバーガーを狙う必要がなくなります。渋谷や北九州でネズミが大行進することにも、ならなかったでしょう。

わたしは意識が狭くなっているとき、悠々と高いところを舞う鳶に、助けてもらったことがあります。化学物質やマイクロプラスチックたっぷりの害を口にするのではなく、本来のご飯を鳶が食べられる日が来るよう、なにか鳶の助けになることを見つけたいと思っています。

同じように、山にはかなりお世話になっているので、山にも寄付やゴミ拾い以外の形でなにか返していける道をつくりたいと思っています。みなさんは、どんな対象に何を返していきたいですか?


天然の樟脳

かつて、お祭りに行くために浴衣を着ようと、着物箪笥を開けては「樟脳がくさい〜!」と騒ぐのが楽しかったものです。

さて、しばらくは天然100%のハーブでできたものを、防虫に使っていましたが「コスパというわたし自身への負荷と地球への負荷を共に減らしたい点から行くと、やっぱり樟脳がいいんじゃない?」と思い始めました。

そしたら、江戸時代から続く内野樟脳さんが、ちゃんと樟脳のアロマオイルを作って下さっていました!福岡の会社ですが、嬉しいことに、九州産のクスノキから作って下さっています。玄関の掃除や網の掃除にも良いそうです。

また、月一でだけ洗剤を使うお風呂場用にも、ソーダサンから出ているバスルームクリーナーという今使っている物より地球に少し優しいだろう物を見つけられました。暗くくすむ重い世で、心が晴れました。

在宅勤務になったり、お店が多数閉まっている中で、自分のおうちと地球というおうちの両方を、害することなく綺麗にしたくなってきた方も、増えたんじゃないかと思います。

地球が立ち行かなくなれば、そもそも社会も成立しません。経済だけ回っても、社会は成立しないのです。ぜひ一緒に、地球への負荷を減らしていきませんか?